2007年02月の記事 | ぐっちいのスポーツを読もう!
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「サポティスタ怖い」を唱えつつ、カンファレンス議事録がUPされました
朝からアクセス数が物凄いことになってるのでビックリしたわけですが。


えー。


おいでくださっている稲本サポの皆様、FC東京サポの皆様、おはようございます。


さらに。


サポティスタからおいでの皆様、お疲れ様です。

サポティスタに晒されるのは2度目ですが、相変わらずスゴイっすね。


てゆうか。


誰ですか、タレ込んだのは。



…と、前フリ終了。(なげーよ)



本題はそんなことじゃございませんでした。


えーと。

ちょいとここでは告知が遅れましたが、'07Albirex Conference 議事録が無事UPされました。
参加された皆さん、ご協力いただいた皆さん、ありがとうございました。
ご精読の上、ご意見、ご感想をよろしくお願いいたします。




えっと、それから。

リシャルデス君いらっしゃいまし。

練習を観に行った方々の話を総合すると、顔はマグノアウベスに似てて、動きとかシルエットはフェルナンジーニョに似てるということらしいですが、リマのお墨付きでもあることだし、諸手を挙げて大歓迎いたしますよ。早くプレーが観てみたいもんです。
author:ぐっちい, category:アルビレックス
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総括のようなもの
3回に渡ってお送りした「選手を支えるフットボールビジネス」セミナーレポート。
コメントや直接メールをくださった稲本選手ファンの皆さん、ありがとうございます。少しはお役に立てましたでしょうか。


さて、セミナーの最後には質疑応答があり、ワタクシも確認したいことがあったので田邊さんに質問をさせていただいた。
──菊地選手が新潟移籍を決める際、オファーが届いていたもう一つのチームのクラブの状況があまりにも悪いので、そこに入ることはリスクが大きすぎるから新潟の方がよい、という判断があったと聞いていますが、菊地選手と田邊さんの間ではどのように考えていたのでしょうか?
「そのチームの情報については、そこに当時在籍していた仲のいい選手から悪い話を聞かされていたようで、菊地本人は当初は“そこには行きたくない”と言っていました。でも、選手同士の情報というのは不正確なことが多いのです。場合によっては“又聞きの又聞き”だったりすることもある。ですから、本人とチーム関係者を会わせて、直接話を聞かせることが大切なんです。実際、菊地もそのチームの話を直接聞いた後は、“そこでもいいかな”と言っていました。
不正確な情報で誤った先入観を持ってしまうことは良くない。まずは人の話を聞いて、正しく判断させる方向に持っていく。エージェントは選手の成長の手助けをする役目もあるのです。」

その他にも多くの参加者から、エージェントという仕事に関する質問が出た。

Q.エージェントとして一番大切にしていることは。
A.選手とのコミュニケーションですね。とにかく選手とはたくさん話をするようにしています。よく話して考え方の相違をなくすようにしておかなくてはいけませんから。その選手の性格を把握するように努めています。

Q.選手とエージェント契約を結ぶとき、どういった面を見ますか。
A.その選手が人の意見を咀嚼できるかどうかは大切にしています。人の意見を聞いて考えることができる選手、あるいは考えられるようになる可能性がある選手と契約したいと思っています。

Q.選手のセカンドキャリアに対して、エージェントとして取り組んでいることはありますか。
A.直接セカンドキャリアにタッチするということはありませんが、現役の頃から「引退したらどうするつもりなんだ?」ということはことあるごとに考えさせるようにはしています。セカンドキャリアについて考えていない選手があまりにも多い。それが一番問題だと思います。
そういう意味では、ウチの契約選手である鈴木慎吾などは、選手協会のインターンシップに熱心に参加していますが、それは彼の過去の経歴に要因があると思います。彼は浦和レッズを1年でクビになって、社会人の横河電機でプレーをするという経験があるだけに、セカンドキャリアについて本当によく考えてますね。


また、稲本選手担当の仁科さんは、「エージェントをやっていて良かったと思うとき」について、このように答えている。

「一番の喜びは、選手が移籍先で試合に出て、活躍してくれることです。それがあるから、この仕事をやっていけるのかな、と」


メディアでは悪役のように伝えられることが多いエージェントだが、業務の実際をどこまで理解して言っているのかは定かではない。交渉事はなかなか表に出てこないものであるため、余計な詮索や邪推を呼んでしまうのは、ある程度は仕方がないことなのかもしれないが、もっと知る努力は必要だと思う。
そのために、このようなセミナーを開催し、表に出しにくい裏話を出せる範囲で公開する取り組みをしてくれている(株)ジェブエンターテイメント関係者の努力には、敬意と感謝の気持ちを表したい。

エージェントとは、「選手の希望、夢を叶えるために」裏方に徹して動く人たちである。選手との精神的な結びつきは、想像する以上に強い。
菊地選手のお父さんがおっしゃっていた田邊さんへの感謝の言葉の意味が、とてもよく理解できた気がしている。


それとね。
「田舎だから、雪国だから、ビンボーだから、いい選手が来ない」
なんて頭からネガティブに考える必要など、どこにもないのだ。知恵と努力と熱意があれば、いい選手は獲れる。そのことを、キクちゃんと隊長が教えてくれているじゃないか。
「補強をしっかりやれ」とフロントに文句を言うだけじゃなく、サポーターにもできることはいっぱいあるぞ、ということだ。
それを理解できただけでも大枚はたいて東京へ行って来た価値はあったな。うむ。
author:ぐっちい, category:サッカー
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選手を支えるフットボールビジネス(セミナー3)…長文ですよ
<セミナー3>
「国内ケーススタディ」
〜菊地直哉選手 ジュビロ磐田からアルビレックス新潟へ契約期間中の移籍(期限付き移籍)〜

(株)ジェブエンターテイメント 田邊伸明さん
(日本サッカー協会認定選手エージェント)


2005年8月、ジュビロ磐田から菊地直哉選手がアルビレックス新潟に半年の期限付き移籍という形で入団した。当時、日本サッカー界に少なからず波紋を呼んだ出来事だったが、その背景にあったものは何だったのか、そのとき、選手の希望と将来のためにエージェントはどう動くのか。その検証をすることによって「期限付き移籍」が持つ意味を知ることができる。
まずは菊地選手の経歴、高校時代にどのような経験をしたのかを知る事から始めよう。

【高校時代…海外クラブを巻き込んだ争奪戦の顛末】
菊地直哉選手は1984年静岡生まれ。清水エスパルスジュニアユースから名門・清水商高へ進学し、U-15日本代表を皮切りに各年代別代表に選ばれ続け、早くから才能を注目されてきた選手である。
性格は普段はおとなしいが、いざグラウンドに出ると一転して激しさを見せる。以前はミスをしたチームメートを試合中に罵倒するような面もあった。一言で表現するなら「負けず嫌い」である。

01年、U-17ワールドカップ(トリニダード・トバゴ)に出場。このとき、たまたま日本戦をアーセナルのスカウトが観戦していたことから、アーセナルから練習参加依頼が届いた(当時はアーセナルに稲本選手が在籍)。
スケジュールの関係でアーセナルの練習参加が実現したのは02年になってからだったが、高校3年になった菊地選手にはさらにはオランダのフェイエノールトからも練習参加要請が来た。Jリーグ7チームからもオファーを受けていたが、アーセナルに続いてフェイエノールトの練習に参加したことで、海外志向が一気に高まった。
エージェントの田邊さんとの出会いは、田邊さんが02年夏に静岡へ高校サッカーの大会を見に行ったことから始まった。
その年の12月、フェイエノールトに招かれて、お母さんと2人でオランダへ。当時のフェイエには、菊地選手の高校の先輩で尊敬していた小野伸二選手が在籍していたこともあり、フェイエ入団へと気持ちが大きく傾いた。実際、フェイエ側のもてなしは手厚く、入団してから住む部屋を見せてくれたり、お母さんには契約書まで手渡していた。
そして、帰国後、田邊さんのもとに菊地選手のお父さんから「フェイエとの話が進みそうなので、ぜひエージェント契約を結んでほしい」という連絡が入り、菊地選手と田邊さんとの二人三脚が始まったのである。

明けて03年1月。菊地選手のもとにはフェイエノールトから正式な入団オファーが届き、入団交渉に入った。話は、契約書内容の確認→合意と、スムーズに進み、3月初旬に清水商高で入団記者会見を行うことまで決まっていた。

それが、そのうちに連絡の間があくようになり、ある日突然、フェイエノールトから「オファー取り下げ」の連絡が入ったのである。契約ごとは、サインをするまでは何が起こるか分からない、という現実を痛感させられることになった。

【失望、そしてジュビロ磐田入団へ】
フェイエ入団の夢が直前で消えたことで、方向転換をしなければならない。まずその前に、精神的ショックを受けて凹んでいた菊地選手本人へのケアと、新たなモチベーションを見出す必要があった。
そのために、フェイエ側から伝えられたオファー取り下げの理由について、どこまでどう本人に伝えるべきか、ということは、ジェブエンターテイメント社内でも議論になった。
フェイエ側の断りの理由は、「金銭が高いから」というものであった。オランダ国内の法律では、外国籍の未成年者を雇用する場合、最低賃金が高く設定されている。それを言うなら、そんなことは最初から分かっていたことであり、実際にその金額で契約書に明記されていたのである。本当の理由は他にあるのではないか?
当時のフェイエでは小野が主力で活躍していて、他に韓国人選手が2人いた。そこに新たに日本人選手を入れることに、フェイエが価値を認めなかったのではないか。つまり、そこまでの「マーケティング・バリュー」はないと判断されたのではないか、という予測がついた。

ここで田邊さんは、真実を本人にそのまま伝え、そしてあえて厳しい言葉を言ったという。

「お前が本当にいい選手なら、フェイエは高くても払っただろう。でも、お前がそこまでの選手ではなかったということだ」

それは次のモチベーションを生み出すために、負けず嫌いな菊地選手の性格を見越しての言葉だった。

海外へ行く夢がひとまず破れた今、次の目標を立てなければ前へ進めない。そこで、「これからどうしたい?」という田邊さんの問いかけに対する菊地選手の答えは次の通りだった。

「ワールドユースに出たい。
他の同期たちは、もうJリーグのチームに入団して、キャンプで揉まれている。今の自分はひとりで練習するしかなく、場所もせいぜい清水商でやらせてもらえるくらいだ。ワールドユースに出るためにも、コンディションを維持する練習環境がほしい。
そして、いつかまた海外にチャレンジしたい」

ワールドユースは当初は3月開催だったが、政治情勢により11月に延期が決まってしまった。そうなると、ワールドユースを海外クラブへのステップにするにはスケジュール的に難しい。入団テストを受けるにも代表との兼ね合いで難しい…。
そこで出た結論は、夢をかなえるために、まずJリーグに行きたい、ということだった。

ここから、オファーを受けていたJリーグ7チームの中から、ジュビロ磐田と京都パープルサンガに絞り込み、施設見学や試合観戦を重ねた結果、磐田入団を決意。
その理由には、同期生でよきライバルだった成岡と大井がすでに入団していたことと、名波や田中誠など、清水商の先輩が多数在籍していたことが大きかったようである。

3月末、ジュビロ磐田に入団。他の選手から出遅れたこともあり、公式戦初出場はその年の1stステージ終盤になってからだった。

【ジュビロ磐田からアルビレックス新潟へ】
03年にはワールドユース出場(ベスト8)、04年はアテネ五輪出場(予選リーグ敗退)。そしてその年のリーグ最終節ではスタメン出場と、出場数も順調に増えていったが、05年、山本監督体制が本格スタートしてから、その雲行きが徐々に怪しくなっていった。

05年の契約更新の際、交渉の席でクラブ側から菊地選手は、「チームの若返り方針」と「その中心選手としての役割を期待しているし、そのように育てる」ということを言われている。

しかし、実際はどうだったか。

第1節〜第12節
チーム順位:5位 9試合522分出場 出場率48%

当初の話の割には、出場機会が少ない。また、交替場面でも、本人が納得できないことが多かった。

そして、エージェントのスタッフが毎試合チェックをし、データを集めて行く中で、「このままではまずい、大変なことになる」「試合の出方がおかしい」という見方が出てきていた。

ここで、ひとつの大きな出来事が磐田で起こった。第12節終了後の藤田俊哉の名古屋移籍である。

この頃、選手起用に対する不満が、ベテラン選手を中心にチーム内に起こっていた。藤田の移籍は、それを象徴する出来事だったのである。監督と選手の間のズレは、目に見えた形になり始めていた。

中断期間中のミニキャンプでも、菊地選手は
「中心選手として見られていない気がする」
という言葉を口にするようになり、ネガティブな心理状態に陥りつつあった。

7月。「HOT6」と銘打たれた第13節〜第18節の連戦におけるチームの勝敗と菊地選手の試合出場状況は次の通りである。

第13節 ● ベンチ外
第14節 ○ ベンチ外
第15節 ○ ベンチ外
第16節 △ ベンチ入り
第17節 ○ ベンチ外
第18節 ● ベンチ外


ベンチ入りした第16節も出番はなく、結局7月のHOT6では、菊地選手は1試合も出場することができなかった。

選手は常に試合に出たいものだが、その一方で、監督はチームの戦績が悪くない場合、チームの流れを維持することを重視する。そうなってしまうと選手は替えにくいのは当然である。このときの磐田はチーム状態が悪くなかっただけに、なおさら、菊地選手は出場機会を得られにくい状況だった。

もともと、菊地選手の最大の希望は「もう1回海外にチャレンジしたい」ということだった。そのためには、試合に出られない、ベンチにも入れない状況はマイナスにしかならない。出場機会をどこかに求めなければならない。

折りしもその頃、菊地選手に対して期限付き移籍のオファーが、あるチームから届いていた。移籍するのか、残留するのか。
磐田側は慰留してきたが、第13節前から話し合ってきたにも関わらず、第13節から3試合連続のベンチ外である。「試合に使わない」監督の意思と、「チームの中心選手として考えている」というクラブの意思のズレは明かで、期限付き移籍をする方向で話は進んで行った。

そこで、オファーを出していたチームとの話し合いに入ったのだが、監督が外国人で日本語が話せないため代理を通して、ということになり、どうもラチがあかない。
そこで、セントラルMFとCBの選手層が薄いと思われるチームに声をかけたところ、即座に反応を示したのがアルビレックス新潟の反町監督だった。

「ぜひ獲得したいから、菊地と話がしたい」

反町監督の熱意と、江尻ヘッドコーチが清水商の先輩で以前から交流があったこともあり、菊地選手本人が新潟行きを決意したのだった。

条件や環境は、もうひとつのチームの方がはるかによかったはずだが、監督が自ら出向き、
「キミを獲得したい。レギュラーは保証できないが、チームのためにキミの力が必要だ」
という言葉を直接もらったことが、菊地選手の心を掴んだのである。
「監督から求められている」ことの素晴らしさは、選手だからこそ身に沁みて理解できることなのだ。

(余談だが、新潟移籍が決まったとき、田邊さんは菊地選手に「新潟でもレギュラーが取れないようでは、オマエのサッカー人生は終わりだ」とあえてキビシイ言葉を言って送り出し、新潟に入ったばかりの頃、反町監督からは「オマエは今までそんなサッカーをやってきたのか」とボロクソに言われ、相当ショックを受けていたそうである。2人の愛のムチは、彼の負けず嫌い魂を大いに刺激したことだろう)

新潟移籍後の活躍は周知の通りだが、それは数字にも現れている。

第19節〜34節
15試合1193分出場 出場率83%

チームの選手への評価の割合は「出場率」が一番高いが、移籍前の出場率の低さを思えば、新潟での数字がいかに飛躍的に伸びたかがよく分かる。
そして何よりもよかったのは、新潟に移籍してからはことあるごとに、

「自分が頑張らないとチームが勝てない」

と言うようになったことである。磐田ではただ先輩選手の後ろをついていくだけでよかったが、チームの中心になっている新潟ではそうはいかない。降格への危機感もあり、
「自分が引っ張って行かなければ」
という意識の高まりは、磐田時代にはなかったことだった。そして、生まれて初めて静岡県外に出て刺激を受けたことでプロ意識が強まり、新潟での4ヶ月で菊地選手は大きく成長したのである。

そして磐田に復帰した06年シーズン。

リーグ戦32試合出場(4得点) カップ戦8試合出場(0得点) 天皇杯3試合出場(0得点)

飛躍的に伸びている数字に、新潟に移籍した効果がはっきりと現れている。

【期限付き移籍の意味】
ここで、「期限付き移籍」について考えてみよう。

最近の期限付き移籍のパターンは大まかに4種類ある。
(1)構想外によるもの
監督の方針や相性などにより構想外になってしまったが、クラブ側としては将来的に必要な選手であると判断した場合(菊地選手はこのケース)。

(2)若手に出場機会を与える
G大阪が以前から盛んにとっている方法。大黒選手が札幌に期限付き移籍したのはその典型的な例。松下選手が新潟に来たのもこのケースである。今年は浦和が多数の若手を期限付き移籍させた。また、チーム同士で提携する方法もある(広島と愛媛FCなど)。

(3)クラブの収入源を主目的としたもの
解雇するよりはクラブとしては収入になるメリットを優先して考えた場合。期限付き移籍を繰り返す選手は、ほぼこのケースである。

(4)トレードまたはトレード+金銭
クラブ間で選手同士をトレードするような形を取ることがある。新潟と名古屋の間でも以前行われた。

以前はネガティブなイメージが付きまとっていた「移籍」だが、最近はその仕組みをうまく利用してポジティブに変わってきている。



…このセミナーを受講することを決めたとき、火付け役wのちゃきんさんから、
「ぜひ田邊さんに“新潟のような田舎チームがいい選手を獲得するためには何が必要か”という内容で単独インタビューに持ち込め」
と無理難題を言われたのだが、田邊さんとは少し話は出来たものの、さすがにインタビューに持ち込むことは出来なかった。
でも、この菊地選手のケーススタディの中で、はっきりと答えが出ていると思っている。

菊地選手が新潟に決めたのは、反町監督から直接言われたという
「キミの力が必要だ」
という言葉だった。また、今年、坂本隊長が新潟に決めた一番の決め手は、鈴木監督自ら出馬した交渉の席で、
「ぜひチームの中心になってほしい」
と言われたことだったと、隊長自身がインタビューで語っている。
チームに、そして監督に「必要とされている」ことの喜びは、選手にとっては何ものにも替えられないほどのプライオリティがあるのである。

「田舎チームだから、お金がないからいい選手が来ない」
というのは、努力と知恵が足りないことの言い訳だ(よほど移籍金がお高いスター選手は別だが)。選手を獲得するために一番必要なのは、資金よりも「ハートに訴える言葉」なのだ。選手はお金よりも情で動く。田邊さんも「金額を第一に考える選手はそれほど多くない」とおっしゃっていたが、それが真実なのだと思う。
そしてその言葉を持っているのはフロントや監督だけではない。サポーターの言葉も大きな力になるはずである。
author:ぐっちい, category:サッカー
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選手を支えるフットボールビジネス(セミナー2)
<セミナー2>
「強化部長という仕事」
〜FC東京のチーム作り〜

東京フットボールクラブ(株)取締役強化部長 鈴木徳彦さん


【FC東京の成り立ち】
FC東京の前身、東京ガスサッカー部が創部されたのは1935年。以来、81年東京都リーグ1部昇格、92年JFL参入(7位)、98年JFL優勝、東京フットボールクラブ(株)設立、99年J2参入(2位)J1昇格…と、順調に歴史を積み上げてきたクラブである(99年には、市陸でJ1昇格決定の胴上げを見せられたのは、あまり笑えない昔話だが)。

FC東京のクラブプロフィール、クラブビジョン等は公式サイトに詳しいので、ぜひそちらに目を通していただきたい。

現在の資本金は807,000,000円、株主数は324団体(303社、21団体/07年2月現在)。株主数では恐らくJリーグ1ではないかとのこと。05年の営業収入は31億6900万円で、資金力はJ1では中位より少し上くらいのレベルにある。

【FC東京の組織、地域貢献活動】
主に、トップチーム、U-18(ユース)、U-15(ジュニアユース)深川・むさし、サッカースクールからなる。また、バレーボール部も所有している。
クラブにはコミュニティーアフェアーズという地域とクラブを繋ぐセクションがあり、多摩地区6市と連係しながら地域密着をめざす活動を行っている。

サッカースクール…東京ガス時代から社会貢献活動の軸にサッカースクールを置いており、現在では都内11ヶ所(深川、錦糸町、千駄ヶ谷、八幡山、大森、駒沢、小平、調布柴崎など)に会員3,300人が所属。

サッカークリニック(1日サッカー教室)…年間約100回開催。約10,000名が参加。

派遣コーチ…約32チームを指導。

キャラバン隊…教育委員会とタイアップし、小学校の体育授業、総合学習授業等でサッカー指導。(都内約65校)

サッカーフェスティバル…ジュニア、ジュニアユース世代や、ミセス、社会人のサッカー大会を開催。

U-18、U-15チームについては、高円宮杯やJユースカップ等で好成績を挙げており、トップチームの梶山選手はサッカースクールからの生え抜き選手である。

【FC東京の目標、チームコンセプト】
目的…“夢”と“感動”と“一体感”
目標…勝利=Jリーグ優勝
チームコンセプト(価値観)…強く愛されるチームを目指して
 (1)最後まで諦めない (2)切替速く、全員守備・全員攻撃 (3)フェアプレー (4)ファンサービス向上 (5)人間性の向上

チームというものは、「選手の質」「指導の質」「取り巻く環境」という3要素がバランスよく大きくならないと強くならない、ということを基本的な考え方でチーム強化をしている。

【FC東京の監督選び】
そのときのチーム環境、目的によって、監督選びは変わっていくものである。
チームが安定しているときは変化を好まないものだが、それを続けていると周りの変化についていけなくなってしまうため、「替え時」の見極めは大切だ。チームへの刺激にもなる。

95〜02年 大熊清
選手を見る目が厳しく、卓越したリスクマネージメントから大胆なサッカーを展開。今のFC東京の基礎を創った功労者である。

02〜05年 原博美
若手育成に長け、攻撃サッカーを発展させた。選手だけでなくチームスタッフに対する心配りも細やかで、チームマネージメント力は素晴らしい。

06年 アレシャンドレ・ガーロ/倉又寿雄
ガーロはFC東京史上初の外国人監督だった。日本サッカー界の流れが有力選手の海外移籍など、海外に目が行く時代に合わせて外国人監督を招聘した。ガーロに決めたポイントは、単身で日本に乗り込んでくるという意気込みを持った人物であったということ。他チームでは、外国人監督がスタッフも海外スタッフで固めるケースが見られるが(大分、磐田など)、監督が交替してしまうとスタッフもごっそりチームを離れてしまい、クラブには何も残らなくなってしまうので、それだけは避けたかった。
結果的にシーズン途中の交代ということになってしまったが、言葉の壁はなかったものの、国民性の違い、サッカーに対する感覚的なギャップは大きかった。ブラジル人監督は日本人監督と違って、選手が一定レベルまで自らの力で上がってくるのを待つ傾向がある。そこから、選手との意識のズレが生まれ、選手に元気がなくなってしまった。倉又監督へのチェンジは、「FC東京らしさ」を取り戻すためだった。

監督就任要請に当たっての考え方は、
・国内外のサッカーの現状把握ができている指導者であること。
・チームコンセプトや流れを理解でき、密にコミュニケーションが取れる人物であること。
・現状のチームのベースを生かした強化ができる指導者であること。
等を基本ベースに監督選びをしている。
今年から原監督が復帰するが、今までの若手育成を基本にしたチーム作りから、優勝を目指すチーム作りへの転換を監督とは確認している。

【FC東京の選手獲得】
(1)チームに合った選手
東京ガス時代は、獲りたい選手がいても入社試験で落ちてしまい、入れないということがあった。しかし、入社試験があったお陰で、社会人として一定レベル以上の選手が入り、現在のクラブの基盤になった。

(2)獲れる選手から、獲りたい選手へ
MF浅利選手は、最初はJリーグからお呼びがかからない選手だったが、東京ガスでは十分使えると判断して獲得した。今でも貴重な戦力として頑張ってくれている。
00年、01年あたりから、競合して選手獲得する方向に転換した。その成果が出たのが04年。増嶋と阿部を他クラブとの競合の末獲得できた。
今年は福西とワンチョペを獲得することができたが、正直やってみなければ分からないのがサッカーの難しさだと考えている。

(3)移籍、引退選手について
退団後をしっかりケア、サポートすることがクラブの信頼を得ることに繋がると思っているので、退団選手の動向はほとんど把握している。毎年、退団選手や元スタッフを試合に招待する日を設けている。
また、選手のプロとしての適性は3年で判断されることが多いが、例えばU-18出身の李忠成選手(柏)は結果的にトップチームでは出番がなく、興味を示していた柏に移籍して今ではU-22日本代表に選出されるまでになった。入れる以上に、出口の見極めはしっかりとやらなければならない。

(4)外国人選手の獲得について
かつては代理人を通してビデオで判断していたが、予算に余裕ができた今は、強化部スタッフが必ず現地に飛び、実際に試合を観て、本人に会うということを大前提にやっている。年に数回はブラジルで試合を観てターゲットを決める(エージェントに入ってもらう場合もあるが)。
例えば、ササ・サルセード選手は、パラグアイで実際にプレーを観て、直接本人に会って獲得を決めた。しかし、05年はチーム状態が悪く、点が獲れる選手が欲しかったので、本人のためにもレンタル移籍させた。

(5)高卒、大卒選手の獲得のポイント
どこのクラブでもやっていると思うが、ポジション別・年齢別のチャートを作り、バランスを見てターゲットを決めている。特に大卒選手は大学4年間の経験があるので、それをチームに持ってきてリーダーになってもらえる選手を獲得する方針である。

【強化部の仕事とは】
監督の仕事が「チームを強くすること」であるならば、強化部の仕事は「強くあり続けるチームを作ること」だと思う。資金作り、環境作りが基本。それは人作り、組織作りでもある。
そして、自分たちのやっていることが日本サッカーにとって有益なのかどうか、ということを常に頭に置いている。ジェフ千葉が阿部選手を浦和に移籍させたのも、日本サッカーのためを思ってのことだろうと理解している。



…鈴木強化部長の登場時に分かったのだけれど、この日のセミナー参加者は基本的にはメディアと業界関係者が多く占めていたのだが、FC東京サポも数人含まれていたようである。質疑応答ではFC東京の選手獲得方針について具体的な質問をする人が何人かいた。その点、新潟はカンファレンスに神田強化部長が出席してくれたお陰で、参加料500円で貴重な話を聞けたわけである。あの日参加した人はラッキーだ。
FC東京の強化部は、さすがに新潟よりも何年か先を行っている印象だが、向かっている方向は新潟と大差はないという感じがする。新潟もいつか追い越せるように頑張りたい。
author:ぐっちい, category:サッカー
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ラグビー日本選手権決勝を見ながら
「選手を支えるフットボールビジネス」セミナーのレポートを小休止して(今夜中にセミナー2はアップします)、昨日のことを少し。
それにしても、清水側の要望で完全非公開のはずの練習試合なのに、試合結果(主力組は2-1で新潟の勝ちだったらしい)がモロバレでは、完全非公開の意味がないじゃないかと清水関係者に小一時間…という気分なんだけど。


お昼前に西堀へ髪を切りに出かけ、24ショップでゴレアドールのショルダーポーチを買い(早速使ってます)、速攻で帰宅。ラグビー日本選手権決勝をNHK総合でテレビ観戦するためである。

決勝の顔合わせは、準決勝でヤマハ発動機ジュビロに大勝した東芝ブレイブルーパス、サントリーサンゴリアスを粉砕したトヨタ自動車ヴェルブリッツ。
東芝の薫田監督もトヨタの朽木監督も、この試合限りで勇退することが決まっている。日本を代表する名フッカーだった薫田、絹糸を引くような芸術的なパスが持ち味だった朽木。日本代表としても活躍した2人が指導者としても実績を残して退くのは、嬉しいことでもあり一抹の寂しさもある。
テレビにはフィールドに出ていく前の両チーム選手たちの表情が大写しになり、全員が気合いが入っているようだった。
東芝はバツベイが、トヨタは廣瀬が、それぞれケガでベンチスタート。両チームにとってキーマンとなる選手がスタートから出られないことがどう影響するのか。そして両監督はこの2人をどう使ってくるのか。

快晴、満員の秩父宮ラグビー場。ああ、あの場所にいたかったなあ、と思っているうちに、キックオフのホイッスルが鳴った。

まず、トヨタが攻勢に出て東芝の反則を誘い、廣瀬に代わって出場のSOアイイがPGを決め、先制。試合が面白くなるためにはトヨタが先制することが必須だと思っていたので、理想的な展開になった。
しかし、そこはさすがに王者・東芝。フィールドを一杯に使った攻撃で、バツベイの代役・LO石澤(こくざわ)が逆転トライ。さらに、トヨタディフェンスを翻弄するBK陣の動きで、再び石澤がトライ。12-3。
東芝が立て続けにトライを獲ったことで、このまま東芝のペースのまま試合が進んでいくのかな、という雰囲気が漂ったのだけれど、トヨタのFWが踏ん張り、トヨタが流れを取り戻しはじめたところで前半が終了した。

後半に入ると、東芝の強力FW(恐らく現時点では日本一の強さだろう)に対抗して一歩も引かないトヨタFWの頑張りから、トヨタがチャンスを作り出していった。重量感あふれるFW戦。そこから後半11分、トヨタにトライが生まれ、12-8。さらにコンバージョンキックも決まって12-10。試合の行方は一気に分からなくなった。

一進一退の攻防は、どちらかといえばトヨタにチャンスが多かった気がするが、東芝の体を張ったディフェンスに阻まれた。
ゴールライン直前で東芝の冨岡主将を中心にトヨタの選手をタッチに押し出し、トライを止めるシーンが何度も見られた。バックスタンドからは、

「いいぞ、テッペー!」

と、冨岡を褒め称える声が飛んでいた。
冨岡という選手はワタクシも好きな選手の一人。華麗なプレーよりも、攻撃でも守備でも体を張れる、泥臭いプレーが身上だ。そして何といっても、その素晴らしいキャプテンシー。スタンドにいても冨岡の声はよく聞こえる。
昨年のマイクロソフトカップ決勝を観に行ったときも、点差がついて東芝選手の一部に楽勝ムードが漂い始めたところで、冨岡の「攻めるぞ!」の一声で選手たちの表情がピシッと引き締まった。
サッカーのように監督が試合中に選手に直接声を掛けられないラグビーでは、キャプテンの果たす役割は大きい。東芝の強さは、冨岡の存在抜きでは語れない(だから、アルビの坂本隊長には本当に期待しているのだ)。

試合が決定づけられたのは、試合終了直前、東芝FB立川のトライだった。
WTBオトが内に入る動きで相手ディフェンスを3人引き付け、タックルで倒される寸前に、左サイドに猛然と走り込んできた立川に絶妙なタイミングのパスを通した。
オトは立川が走り込んでくることを信じ、立川もオトがパスを出してくれることを信じていた。信頼関係によって確立されたコンビネーションから生まれた、美しいトライだった。
こういうトライシーンがあるから、ラグビーって面白い。

その後も諦めないトヨタの猛攻を東芝が鉄壁のディフェンスで凌ぎきり、4分の長いロスタイムの末、ノーサイド。

ナイスゲーム!

そんな言葉を両チームの選手たちに掛けたくなってしまうほどの、ラグビーの魅力に満ちあふれた見応えのある好ゲームだった。改めて、その場にいられなかったことが残念で仕方がない。


これで、国内のラグビーシーズンも終了。これからは秋のラグビーW杯に向けて、いよいよ日本代表が主役になるわけだけれど、ひと心地つく間もなく、今週末からはJリーグが開幕する。
うーん、この絶妙なスケジュール設定。ワタクシ的には目まぐるしいけれど、それだから楽しいのだ。
author:ぐっちい, category:ラグビー
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選手を支えるフットボールビジネス(セミナー1)
2月24日、東京・新宿NSビルにて開催された、第2回「選手を支えるフットボールビジネス」セミナー((株)ジェブエンターテイメント主催)。
その内容について、3回に分けてレポートします。長文ご容赦。

<セミナー1>
「国外ケーススタディ」
〜稲本潤一選手 ウエストブロムウイッチアルビオンからガラタサライへ(契約期間中の完全移籍〜

(株)ジェブエンターテイメント 仁科佳子さん
(日本サッカー協会認定選手エージェント)


2006年8月、イングランドのウエストブロムウイッチアルビオン(WBA)からトルコ・リーグの強豪・ガラタサライへ完全移籍をした稲本潤一選手(27歳)。
契約期間を1年残した段階で完全移籍をした背景と、そこに至るまでの経緯から、FIFAルールにのっとりながらの国を跨いだ移籍の難しさを、担当エージェントの仁科佳子さん(小柄でキュートな美人でした)に解説していただいた。

【選手とクラブ、移籍を巡る両者の思惑】
稲本選手がWBAからの移籍を決意した直接的な理由は、WBAの2部降格にあった。
常にトップリーグ、最高レベルの場所でプレーしたいと望んでいた稲本選手は、WBAが降格してしまったことにより、即移籍の希望を出した。

FIFAルールでは、移籍に関しては次のような条項がある。
第13条
プロ選手とクラブは、契約満了または合意のもとでなければ契約解除できない。
第18条
選手の獲得を希望するクラブは、その選手の所属クラブの承諾なしには移籍交渉はできない。

稲本選手が移籍するためには、まずWBAとの契約解除の合意がなければならなかったが、WBA側は「1年で1部に復帰するために、誰も放出しない」と、移籍希望にNOの答え。
そこで、稲本選手の希望をかなえるために、エージェントはクラブに選手自身の意志、状況をありのまま伝え、移籍実現への糸口を探すことになった。

ここで、その糸口になったのは、WBA側のひと言だった。

「稲本のような選手を、対戦相手にはしたくない」

稲本選手の実力を知るWBAは、同じリーグの他クラブに移籍させたくないという考えであった。
そこでエージェントは、稲本選手の希望は国外移籍であることを訴え、やがてWBAも「チャンピオンシップ以外のクラブなら」という条件付きで、移籍にOKを出してくれたのである。

次にクリアしなければならなかったのが、契約解除にあたっての補償金(移籍金と同意。違約金も含まれる)の問題であった。
移籍のハードルを低くするためにも、少しでも安くしたい稲本選手側と、高い額で売るためにも、少しでも高くしたいWBA側の思惑がぶつかりあい、金額設定は難航。
しかし、3年契約があと1年残っていた稲本選手を出し渋って、契約満了まで引っ張ってしまうと、クラブには移籍金が入らなくなってしまう(欧州ルールでは、契約満了日を過ぎると移籍金はゼロになる)ことや、欧州の移籍市場は夏がメインであるため、移籍金が低く抑えられやすい1月市場より夏に出す方がクラブにとってはおトク…といったところを交渉でアピールし、うまく折り合いをつけることができた。

【すったもんだの移籍交渉】
WBAの了承を得たことで、エージェントはプロモーションDVD(稲本選手のプレー映像を編集したもの)を制作し、ターゲットを絞ったクラブに配布してセールスを開始。いくつか好感触を得ていたものの、ここで思わぬ壁が立ちはだかった。
ドイツW杯である。
稲本選手もいた日本代表がいいところなく予選敗退したことで、クラブからの反応が全くなくなってしまったのだ。

そこで、セールスの範囲を広げることに。欧州CLに出場でき、リーグで優勝争いができるチームであることや、27歳という年齢も踏まえて将来につながるクラブ、リーグを選定して移籍先を探す中で浮かび上がってきたのが、トルコリーグのガラタサライという強豪クラブだった。

ガラタサライは監督が稲本獲得に熱心で、8月初旬、間近に迫ったCLの試合に選手登録を間に合わせるスケジュールで、条件協議、選手と監督の電話会談(ここまで来るとほぼ確実と言われている)、渡航準備、書面(オファーレター)送付依頼…と、話はトントン拍子に進んだ。
ところが、ガラタサライ側からの契約書がなかなか届かず、やがて連絡不通になってしまったことから、事態が急変する。連絡の間隔が空くようになったり、連絡が取れなくなったりするときは、「何か」が起こっているサインなのだ。

果たして、ようやく連絡がとれたガラタサライからは、

「スポンサーが稲本獲得に同意をしてくれない」

という思わぬ返答が来たのである。即戦力として経験豊かな稲本を獲得したかった監督に対して、スポンサーは25歳以下の伸びしろのある若手選手を望んでいた。選手獲得にスポンサーが口出しするとは…。国変われば…とは言うけれど、さすがの百戦錬磨のエージェントにとっても初めてのケースであった。

エージェントはガラタサライにスポンサー説得をお願いしていたのだが、間もなく、ガラタサライが25歳以下のMF獲得濃厚という情報が入り、稲本選手の移籍の可能性がほぼなくなったことが分かった。8月27日のことである。夏の欧州移籍市場の窓口が閉じるのは8月31日18時。夏の移籍はもうタイムリミットだった。

WBAに残留し、1月移籍を目指す方向で進みはじめたとき、またもや事態が動いた。
8月30日早朝4時(日本時間)、東京のエージェントのもとに、イングランドの稲本選手から電話が。

「ガラタサライの監督から「まだウチに来る気はあるか?連絡をくれ」という留守電が入っていたので、すぐに連絡を取ってくれませんか」

ここから、東京、イングランドのWBAと稲本選手、トルコのガラタサライの間で、「8月31日18時」というタイムリミットと、時差の壁との闘いに3者の思惑がからみあった、丁丁発止の交渉劇が始まったのである。

稲本選手がイスタンブール行きの飛行機に乗るために空港に向かう途中でトルコからストップがかかり、空港待機をするハメになったり、やっと届いた統一契約書がトルコ語で仕方なく電話口で英語で確認したり、現地入りして直接交渉にあたったスタッフも含めたそのやりとりは、地球上を電波で飛び交ったわけだが、ようやくクラブ間合意し、契約書にサインし選手登録が完了したのは、移籍窓口が閉じる直前のことだった。


稲本選手の移籍が成功した裏には、監督の稲本獲得への強い意志があった。エージェントは、まず現場(監督)の希望を汲み取り、それに沿った動きをすることが近道であること、そして文化の違い、国民性の違いを事前に把握しておくことも、国外での移籍交渉には欠かせないことを象徴した出来事であった…。
author:ぐっちい, category:サッカー
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もうすぐお正月
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ホーム開幕戦まであと2週間になった、今日のビッグスワン。
正面のスタジアム名の文字がそろそろ「東北電力ビッグスワンスタジアム」に変わったかな?と思ったら、残念ながらまだでした。
author:ぐっちい, category:モブログ
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いやあ、勉強したした。
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朝6時27分発の新幹線で東京へ。
ゼロックス・スーパーカップが行われる国立競技場を華麗にスルーして、出かけた先は西新宿、新宿NSビル。

ここで、(株)ジェブエンターテイメント主催による第2回「選手を支えるフットボールビジネス」セミナーに参加してきた。

セミナーの内容は、
〈セミナー1〉
「国外ケーススタディ」
〜稲本潤一選手 ウエストブロムウイッチアルビオンからガラタサライへ(契約期間中の完全移籍)〜
(株)ジェブエンターテイメント 仁科佳子
(日本サッカー協会認定選手エージェント)

〈セミナー2〉
「強化部長という仕事」
〜FC東京のチーム作り〜
東京フットボールクラブ(株)取締役強化部長 鈴木徳彦

〈セミナー3〉
「国内ケーススタディ」
〜菊地直哉選手 ジュビロ磐田からアルビレックス新潟へ 契約期間中の移籍(期限付き移籍)
(株)ジェブエンターテイメント 田邊伸明
(日本サッカー協会認定選手エージェント)

セミナー1は、夏の移籍市場窓口が閉まる期限ぎりぎりまで、時間との競争とイギリス、トルコ、日本の時差の壁を乗り越えつつ繰り広げられた交渉劇が、まるで映画のようにスペクタクルだった。
セミナー2は、先日、アルビレックス・カンファレンスに参加した身には、FC東京の考え方、方針等が実に興味深く、勉強になった。
セミナー3は、菊地くんのご家族などから伺っていた話も踏まえ、選手が移籍を決意する経緯や心の動きが手に取るように分かり、期限付き移籍の意義について理解が深まった気がする。

いや、もう、朝10時から夕方16時半まで、ノートを取り続けで、久々に「勉強した」という感じ。お高い参加料も十分元が取れた気分だ。
内容の詳細については、ちゃきんさんからは「レポートを書け」とのお達しだし、頑張ってまとめるので、しばしお待ちを。

セミナー終了後、田邊さんにご挨拶させていただいた。元気な、エネルギッシュな話し方で、敏腕エージェントというより、体育会系で意気に感じて動くタイプ、という印象の人だ。
菊地くんのお父さんが話してくださった、
「いつも直哉に寄り添ってくださった田邊さんには感謝しているんです」
という言葉を伝えると、
「お父さんは無口な方で、あまりそんな話をしたことはないんですけど…いやー、うれしいですねえ…」
と、しみじみとしていた田邊さんであった。

終わって西新宿の街をぶらぶらしているときに、ゼロックスカップの結果を知った。

よ、4-0て(汗)

ホーム開幕戦では、浦和はどんな状況で新潟にやってくるのか。いろんな意味で、頑張れ横浜FCだな。


新潟に戻ると、雪が舞っていた。もう一週間後にはシーズン開幕だ。

そうそう、帰宅したらシーズンパスが届いていたのだ。いよいよだね。
author:ぐっちい, category:サッカー
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お勉強しゅーりょー
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10時から16時半まで、みっちりお勉強させていただきました。田邊さん、ありがとうございました。大変いい人ですた。

ホッとしたので、意味もなく都庁の写真撮ってみた(ただのお上りさん状態)
author:ぐっちい, category:モブログ
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ランチ
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寒くて外に出る気にならんので、同じビルのレストラン街で、目の前に都庁を眺めつつパスタランチ。
午後のお勉強に向けて腹拵え(^.^)b
author:ぐっちい, category:モブログ
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